日中国交正常化(にっちゅうこっこうせいじょうか)とは、1972年9月に日中共同声明を発表して、日本国と中華人民共和国が国交を結んだことである。

日中国交正常化(にっちゅうこっこうせいじょうか)とは、1972年9月に日中共同声明を発表して、日本国と中華人民共和国が国交を結んだことである。, これにより、中華人民共和国建国23年を経て両国間の正式な国交がない状態を解決した。1972年9月25日に、田中角栄内閣総理大臣が現職の総理大臣として中華人民共和国の北京を初めて訪問して、北京空港で出迎えの周恩来国務院総理と握手した後、人民大会堂で数回に渡って首脳会談を行い、9月29日に「日本国政府と中華人民共和国政府の共同声明」(日中共同声明)の調印式において、田中角栄、周恩来両首相が署名したことにより成立した。またこの日中共同声明に基づき、日本は中華人民共和国と対立関係にあり、それまで国交のあった中華民国に断交を通告した。, 1971年10月の国連のアルバニア決議で、中華人民共和国が常任理事国の地位を取得するなど、国際的な枠組みの変容が背景にあった。 また、この国交正常化以降、日本から中華人民共和国へ総額3兆円を超えるODA(政府開発援助)が実施されている[3]。, 1945年に日本が中華民国を含む連合国に降伏し、第二次世界大戦が終結すると間もなく国共内戦が始まった。1949年10月1日、これを優位に進めていた中国共産党によって中華人民共和国が建国され、敗退を続けた中国国民党率いる中華民国は台湾島とその周辺の諸島を支配するのみとなった。こうして「中国を代表する」と主張する政府が二つ存在する状態が生まれ、いわゆる「中国代表権問題」に直面することとなった[4]。この時は日本はまだ戦後4年で連合国軍(GHQ)の占領下に置かれ、外交権の無い時期であった。, 中華人民共和国とは、ソビエト連邦をはじめとする東側諸国が早い時期に国交を結んだ。また、イギリスは西側諸国の一員であるものの、植民地として抱える香港への中華人民共和国の圧力を意識せざるを得ないため、1950年1月に中華民国との領事関係は維持したまま中華人民共和国を承認して北京に代理大使を置き、当初から同盟国のアメリカ合衆国とは異なるスタンスを取った。そして後年に起こった国連における中国代表権の争いでは、イギリスはどちら側の提案にも賛成するという態度に終始した。, 1950年に朝鮮戦争が始まり、2年後に日本が占領下を脱したころには、すでに朝鮮半島では大韓民国側についた国連軍の主力であるアメリカ軍やイギリス軍と、北朝鮮側についた中華人民共和国の人民義勇軍(「義勇軍」という名目ではあったが、事実上の中国人民解放軍だった)が砲火を交えていた。日本は西側陣営に属した中華民国を支持する立場に立ったため、中華人民共和国とは国交を持たない状態が1972年まで続くことになった。その間は民間での経済交流を行うのみであった。, 国交樹立までの日本と中華人民共和国との交流は、細々とした民間交流に過ぎなかった。1950年10月1日には「日中友好協会」が設立されたものの、同年勃発した朝鮮戦争の影響もあって12月6日には対中輸出を全面禁止するなど、ソビエト連邦や北朝鮮などの東側諸国と共同歩調を取る中華人民共和国を警戒する政策がとられていった。, さらに1952年4月、日中貿易促進会議を設立していた高良とみ、帆足計、宮腰喜助の各国会議員が、政府方針に反しソ連から直接北京を訪問。6月に第一次日中民間貿易協定に調印し、国内に大きな議論を巻き起こした。, この時期は日本が中華民国と日華平和条約を結んだ頃でもあった。1953年7月に中華人民共和国も参戦していた朝鮮戦争が休戦に至ると、「日中貿易促進に関する決議」が衆参両院で採択された。そして池田正之輔を団長とする日中貿易促進議員連盟代表団が訪中、10月に第二次日中民間貿易協定を結び、民間貿易が活発化した。, 吉田茂首相は、1951年9月のサンフランシスコ講和会議の前は国会答弁でも中華民国を承認するとは明言しなかった[5]。西側でもイギリスが両国とも関係を保っていることに注目して、中華民国を承認するにしても中華人民共和国の上海に「貿易事務所」を開設することに言及していた[6]。, むしろ中国代表権問題が解決するまで承認を先延ばしすることも考えていたが、アメリカのダレス国務省顧問に一蹴されて[注釈 1]、結果として中華民国のみを承認することになった[注釈 2]。そして講和条約が発効した4月28日に日華平和条約が締結されて、日本と中華民国との戦争状態は終結した。これが、20年後1972年の日本と中華人民共和国との国交正常化で最も難しい問題となった。, 吉田茂の首相辞任後に鳩山一郎が首相に就任して、対共産圏との関係改善を目指して、特に日ソの国交回復に尽力した。そして対中華人民共和国に関しても政経分離を原則に、外交関係はなくても経済関係の拡大を求め、特に石橋湛山通産相は日中貿易拡大を望んでいた。このような鳩山政権の動きに中華人民共和国は注目していた。, 1955年4月になると、バンドン会議において高碕達之助と対談した周恩来総理は、「平和共存五原則の基礎の上に中華人民共和国が日本との国交正常化推進を希望する」と表明した。同年5月には日本国際貿易促進協会、日中貿易促進議員連盟と中華人民共和国日本訪問貿易代表団との間で第三次日中民間貿易協定を結んだ。同年12月に中華人民共和国政府内に「対日工作委員会」が設けられて郭沫若主任、廖承志副主任で対日政策の策定、執行に関する責任部局が出来た[7]。翌1956年9月には、中華人民共和国内の日本人の戦犯、抑留者およそ1000人が釈放されて11年ぶりに故国に戻ってきた。, こうした動きには中華人民共和国側に民間交流を積み上げることによって政府レベルの関係強化をめざす狙いがあった[注釈 3]。第三次貿易協定の交渉で外交官待遇の通商代表部の設置を求めてきたことで、あくまで政経分離の方針の日本側とのズレが生じていた。しかし日本側はあくまでアメリカが黙認する範囲内での民間交流の拡大であり、鳩山及びその後の石橋政権での対中政策は、東アジアの冷戦の枠組みからはみ出るものではなかった。, 1957年2月に石橋首相の病気辞任の後岸信介が首相に就任した。彼は冷戦の枠組みの中で日米安保条約の改定でより自主的な外交をめざし、特に東アジアに対しては賠償を含む戦後処理を進めて、アジア諸国との関係改善を計ろうとした。これはアメリカに対して対等の日本の自主性を高める意図があった。, そして戦後初めて現職首相が東南アジアを歴訪して、その帰途に中華民国の台北に立ち寄り、蒋介石総統と会談して中華民国との関係を強化した。岸は中華民国の蒋介石との会談で軍事的な「大陸反攻」に反対しつつ台湾を大陸より豊かにすることが政治宣伝になると提案して中華人民共和国は反発した[8]。親米で親華派だった岸も「日中貿易促進に関する決議」の提案者[9][10] でもあり、総理就任後も対中政策重視のため[11] に起用した藤山愛一郎外相とともに国会答弁などで中華人民共和国との国交樹立は尚早としつつ第四次日中民間貿易協定への「支持と協力」[12][13][14] や「敵意を持っている、あるいは非友好的な考えを持っているということは毛頭ない」[15] として日中貿易を促進したい旨[16] を再三述べており、岸は中華人民共和国との関係は基本的に「政経分離」であると語ってる[17]。岸は藤山とともに池田正之輔の訪中の際も打ち合わせを行っていた[18]。, そして1958年3月に岸政権の承諾[17] で第四次日中民間貿易協定が締結された。その時の覚書に通商代表部の設置や外交特権を与え、両国の国旗掲揚も認めるなどの内容が盛り込まれていて、このことで日本政府に対して中華民国とアメリカから反発が出て、予定していた日華通商会談を中止して日本製品の買い付け禁止の処置も出され、岸政権は結局民間サイドでの約束であったので外交特権も国旗掲揚も認めない方針を出し、今度は中華人民共和国側と緊張関係が漂う中で1958年5月2日に「長崎国旗事件」が起きた[注釈 4]。これに中華人民共和国の陳毅外相が日本政府の対応を強く批判して、5月10日に全ての日中経済文化交流を中止すると宣言したのである[19]。日中間の貿易が全面中断されて、ここまで積み上げてきた民間交流がここで頓挫していった。この年の夏に周恩来首相が「政治三原則」(中国人民を敵視しない、二つの中国を作らない、両国の関係正常化を妨害しない)を表明し、これに嫌悪感を示した日中間はしばらく膠着状態となった。それまでの日本側の「政経分離の方針」は中華人民共和国側の「政経不可分の原則」と対立し、1959年に訪中した石橋湛山前首相と周恩来首相との会談で「政経不可分の原則」の確認がなされた。, しかし、民間レベルでの接触は続き、企業や友好関係にある団体や個人との交流は続けられた。これらはその後「友好貿易」として経済取引きが継続して、やがて「覚書による貿易」との2つのルートで日中間の経済関係は、中華人民共和国内に文化大革命の嵐が吹き荒れた1960年代も続いた。, 1960年の日米安保条約改定の混乱の中で岸首相が辞任して、池田勇人が首相に就任した。池田首相は日中関係改善論者であり、日中貿易促進を唱えていた[20]。しかし困難な問題があった。現実には「二つの中国」があり、けれどもどちらの国も「一つの中国」を唱えており、片方と結ぶことはもう片方とは断絶することになる。そして国連での常任理事国である議席の中国代表権をどう解決するかであった。, 池田首相は国連中心の外交方針で、中華人民共和国の国家承認と国連における中国代表権問題を密接に関連づけるようになっていた。そして、まず国連での中国代表権問題の進展を図り、連動して中華人民共和国政府の承認をめざすというものであった。これは中国代表権の範囲を中国本土(大陸)に限定して、中華民国の国連における議席を維持したまま中華人民共和国の国連加盟を推進して最終的には国交樹立を目指すもので、あくまで「二つの中国」が前提であった。しかし両国ともに「一つの中国」を原則としており、西側諸国の多くの国が「二つの中国」という現実への対応に苦慮していた[21]。, 池田首相は当面中華民国を支持しつつも、実際に支配する地域(台湾島一帯、金門島及び馬祖島)にその地位を限定することで同国の国際法的地位を確定し、中華人民共和国の国連加盟が実現しても中華民国の議席は守られると考えていた。そのためには蒋介石を説得しなければならず、それが可能なのはアメリカのみであると考えて、1961年6月の訪米時に当時のジョン・F・ケネディ大統領にこの問題の重要性に言及したが、ケネディの反応は「中華人民共和国の国連加盟に対するアメリカ国内の抵抗が大きい」とするものであった。この問題はこの時で終わってしまった[注釈 5]。, そして1964年1月に、突然フランスのシャルル・ド・ゴール大統領が中華人民共和国との国交正常化に踏み切って世界を驚かせたが、フランスは中華人民共和国との国交正常化をしても中華民国が自ら断交措置を取らない限り関係を維持する意向を示していた。この時に中華民国が「二つの中国」政策を認めるのか、日本も注目して、しかも1月30日の衆議院予算委員会で池田首相は、中華人民共和国の国連加盟が実現すれば日本も中華人民共和国政府を承認したいと述べた。しかし、翌月に中華民国は対仏断交に踏み切り、池田内閣で検討していた「二つの中国」政策は挫折した[22]。, 1960年夏の池田内閣の誕生と合わせるかのように、中華人民共和国側から対日貿易に対して積極的なアプローチがなされてきた。そして松村謙三、古井喜実、高碕達之助、等の貿易再開への努力ののち、日中貿易促進会の役員と会談した際に周恩来首相から「貿易三原則」(政府間協定の締結、個別的民間契約の実施、個別的配慮物資の斡旋)が提示されて、ここから民間契約で行う友好取引いわゆる「友好貿易」が始まった。これはあくまで民間ベースのものであったが「政治三原則」「貿易三原則」「政経不可分の原則」を遵守することが規定された政治色の強い側面があり、日本国内では反体制色の強い左翼団体や、政治的立場より収益を優先する企業が中心的な役割を果たしていた。, そこで、これとは別に政府保証も絡めた新しい方式での貿易を進めるために1962年10月28日に高碕達之助通産大臣が岡崎嘉平太(全日本空輸社長)などの企業トップとともに訪中し11月9日に「日中総合貿易に関する覚書」が交わされて、政府保証や連絡事務所の設置が認められて半官半民であるが日中間の経済交流が再開された。この貿易を中華人民共和国側代表廖承志と日本側代表高碕達之助の頭文字からLT貿易と呼ばれている。, しかし1963年10月7日に日中貿易のため中国油圧式機械代表団の通訳として来日した人物が亡命を求めてソ連大使館に駆け込み、その後中華民国へと亡命希望先を変えて、その後もとの中華人民共和国への帰国を希望する事件が発生した(周鴻慶事件)。政府は結局中華人民共和国へ強制送還したが、中華民国が反発して両日関係が戦後最悪といわれるほど悪化し、その打開に吉田元首相が訪台してその後にお互いの了解事項を確認した「吉田書簡」を当時の国府総統府秘書長張群に送り、その中で二つの中国構想に反対して日中貿易に関しては民間貿易に限り中華人民共和国への経済援助は慎むことなどの内容があって、LT貿易に関しては影響を受けた。しかし池田首相の日中貿易に対する積極的な姿勢は変わらなかった。, さらに1964年4月19日、当時LT貿易を扱っていた高碕達之助事務所と廖承志事務所が日中双方の新聞記者交換と、貿易連絡所の相互設置に関する事項を取り決めた(代表者は、松村謙三と廖承志)。同年9月29日、7人の中華人民共和国の記者が東京に、9人の日本人記者が北京にそれぞれ派遣され、日中両国の常駐記者の交換が始まった(日中記者交換協定)。, 1964年秋に池田首相が病気のため辞任して佐藤栄作が首相に就任した。佐藤内閣は当時、歴代最長の7年8ヶ月続くが、その在任期間はベトナム戦争や沖縄返還、日米安保延長があり、そして中華人民共和国では中ソ対立や文化大革命があって国内が混乱し、日中間には大きな溝が生まれて、再び交流に齟齬をきたした。, 1966年3月には日本共産党の宮本顕治が訪中したが、毛沢東と路線対立して帰国し、それまで友好的であった両国共産党の関係が悪化した[注釈 6]。この直後、中華人民共和国では文化大革命が始まり、やがて中国共産党を巻き込んで国内が混乱し、中華人民共和国の外交活動も停滞した。この混乱は3年後の1969年4月の中国共産党九全大会で党の立て直しが図られて以降鎮静化した。しかし政府間の関係は冷え切ったままであった。そのような中でも1968年3月に古井喜実が訪中し、覚書貿易会談コミュニケを調印。いわゆる覚書貿易[注釈 7] が開始された。彼は以後毎年訪中し、その継続に努めた。そして、政治的に激動した1960年代後半は、両国の外交関係は半ば閉じられた状態であった。しかし、貿易面ではLT貿易は浮き沈みがあったが民間の友好貿易は右肩上がりで当初の10倍に達した。, 中華人民共和国が1949年10月に建国されてから、東西冷戦の時代に入ったが、1950年にイギリスが、1964年にフランスが承認して国交を樹立していた。折しも1950年代後半頃から中ソ対立が激しくなり、一方で米ソ協調路線となり、フランスの独自外交とアメリカのベトナム戦争への介入、中華人民共和国の文化大革命など、それまでの東西対立とは違って60年代後半は国際情勢が複雑で多極化していた。1969年春に中ソ間で国境線を巡る武力衝突事件が起きて、中華人民共和国がソ連を主な敵とする外交路線を取り、また混乱していた国内の文化大革命が落ち着き始めてそれまでの林彪らの文革派から周恩来が実権を回復していた頃から、積極的な外交を展開するようになった。1970年10月にカナダ、12月にイタリアと国交を結び、この頃からアメリカへの働きかけが水面下で始まっていた。, 1971年3月に名古屋市で開催された世界卓球選手権に文革後初めて選手団を送り、当時のアメリカ選手団を大会直後に中華人民共和国に招待するピンポン外交が展開されて後に、7月にアメリカのヘンリー・キッシンジャー大統領補佐官(当時。後に国務長官)がリチャード・ニクソン大統領の命を受けて北京を秘かに訪問し、中華人民共和国成立後初めて米中政府間協議を極秘に行った。そして7月15日に、ニクソン大統領が翌年中華人民共和国を訪問することを突然発表して、世界をあっと驚かせた(第1次ニクソン・ショック)。このニクソン大統領の中国訪問は翌1972年2月に行われた。, この当時アメリカにとっては中華人民共和国をパートナーとした新しい東アジア秩序の形成を模索するもので、中華人民共和国と対立するソ連のみならず、中華人民共和国が支援していた北ベトナムに対しても揺さぶりをかけることで、膠着状態にあった北ベトナムとの和平交渉を促進することも目的であった。1965年から武力介入して泥沼化したベトナム戦争を抱えて複雑な状況の中で米国としても主導権を持って外交を積極的に推し進めるためには、ソ連と対立しつつ北ベトナムを支援していた中華人民共和国を承認することが必要であることをニクソン自身は大統領になる前から考えていた。, また前年に国際連合での中華人民共和国の加盟をめぐって賛成票が多数となり(米国の重要事項案も可決されて三分の二以上の賛成票ではないので加盟は実現しなかった)、この年秋の国連加盟が確実視されていた。また大統領選挙で公約したベトナム戦争からの名誉ある撤退を進めるためにも北ベトナムを支援する中華人民共和国との交渉が必要なことであると認識していたことで、ニクソンの突然の中華人民共和国訪問が実現した。, このニクソン訪中の時に周恩来との数回の会談の中で日米安保条約は対中華人民共和国のものでなく、「対ソ連が中心でかつ日本の軍事力を抑えて日本の軍事大国化を防ぐ目的のものであること」とをキッシンジャーが説明して周恩来も理解を示した。このことは後に日中国交正常化の障害を1つ取り除いていたことになった, 佐藤首相は、池田前首相の立場とは少し違って、政権発足当初は二つの中国を前提とせず、国府の国連での議席を守ることでは前政権と変わらないが、中華民国を正統政府と見なすという現実的対応を前提にして、将来両国がお互いを承認する方向を模索するものであった[23]。しかし時代はベトナム戦争の激化と中ソ対立や文化大革命の混乱で、池田内閣の時代と違い、佐藤首相が積極的に日中接近に打って出ることはそもそも不可能であった[24]。そして、佐藤内閣の大きな課題は沖縄返還であり、日中関係は停滞していた。, そして1970年代に入る頃にこの米中間の対話開始と急速な接近で、当時西側の主要国で中華人民共和国との国交が正常化していない国は日本と西ドイツだけで、他の英仏伊加がすでに承認していたことは、「日本外交が取り残されている」との認識が一般にも広がっていった。一方、当時の自民党内ではまだ東西冷戦の思考から抜け出せず、また中華民国を支持する勢力があり(源田実や浜田幸一なども親中華民国派であった)、様々な権益が絡んでいた。, また当然のことながら、中華民国と中華人民共和国の両政府はともに、他国による中国の二重承認を認めないために、佐藤首相の外交は60年代の冷戦思考そのままのものであった。1971年3月に訪中した藤山愛一郎は周恩来首相の言葉から米国が先行して米中対話を行うことを危惧する旨を外務省に伝えているし、福田赳夫は「中国問題では米国が日本に相談に来ている」と語っていた[25]。それが「ある日の朝、目を覚ませばアメリカと中国とが手を握っていた」[注釈 8] ことで右往左往することになった。, 1971年秋に国連総会で中華人民共和国の加盟を審議した際には、日米とも加盟そのものには反対せず、しかし中華民国を排除しようとすることは重要事項であるとして前年までの方向と全く違う考え方の「逆重要事項案[注釈 9]」と、中華人民共和国の常任理事国入りを認めつつ中華民国の議席も維持する「複合二重代表制決議案[注釈 10]」の2つの案を共同提案国として提出したが、まず逆重要事項案が否決[26] されて、複合二重代表制決議案は自然消滅となり、中華人民共和国の加盟と中華民国の追放を求めた「アルバニア案」の採決[27] で日米とも反対したが結局賛成が大きく上回り、加盟と追放が決定された。この時のアメリカ国連大使のジョージ・H・W・ブッシュは国連総会の質疑で反対の論陣を張った(皮肉にも後に事実上の米国大使館である北京の米中連絡事務所の所長を務める)。, アメリカは反対を唱えながらもこの時すでにキッシンジャーが訪中して翌年のニクソン訪問の実務的な協議をしていた。中華人民共和国の国連加盟が実現して中華民国が国連を脱退した頃に、佐藤内閣でこの年7月まで官房長官を務め、当時自民党幹事長であった保利茂は東京都の美濃部都知事が訪中した際に極秘に周恩来首相宛てに1971年10月25日付けで1.中国は1つである、2.中華人民共和国が中国を代表する政府である、3.台湾は中国国民の領土であるとし保利自身が訪中して両国政府間の話し合いを進めたい旨の親書を渡した[28]。これは直後に明らかになり、キッシンジャーならぬミノベンジャーだと言われた。しかしタイミングが国連総会で日本が逆重要事項案に賛成し、中華人民共和国加盟/中華民国追放のアルバニア案に反対していた時であったため、周恩来首相から「まやかしで信用できない」と一蹴されている。この時に結果は不首尾であったが保利がそれまでの中華民国支持の立場から中華人民共和国との国交正常化へ立場が変ったことは、自民党内での親中華民国派と親中華人民共和国派との力関係に変化が生じることとなった[28]。, 1971年には、日本の財界首脳が訪中団を送り込んだ[29][30][31]。1971年9月に佐伯勇を中心とした関西財界訪中団が[32]、同年11月には永野重雄日本商工会議所会頭と木川田一隆経済同友会代表幹事を中心とした東京財界訪中団が訪中し[33]、北京の人民大会堂で周恩来総理と会談した[30][31][33][34]。このとき周総理は永野重雄に「これで日中関係、完全に修復しました。我々は今後いかなる日本人も歓迎する」と言ったといわれる[35]。日中国交正常化は、こうした日本財界主流による訪中の成果の上に成ったものという評価もある[31][32][33]。, 1972年1月の施政方針演説で佐藤首相は「中国は一つであるという認識のもとに、今後、中華人民共和国政府との関係の正常化のため、政府間の話し合いを始めることが急務である」として中華人民共和国との国交正常化を目指す意向を示した[36]。, NHKの取材により、佐藤は任期中の国交回復を目指して密使を送り込み、中華人民共和国と中華民国との間で連絡を取っており、国連総会での日本の反対があっても交渉は進んでおり、ニクソンに続き国交回復交渉を直接行うため北京を訪問しようとしていたことが明らかになった。その後、総理の座を狙う自民党内勢力からの横槍が入り計画が頓挫したこと、総理の座を譲ろうとしていた福田赳夫を中国側関係者に引き合わせていたことが明らかになった[37]。, 1972年7月5日に自民党総裁選挙で総裁となり、7月7日に内閣総理大臣に就任した田中角栄は就任前から日中関係の打開に積極的な姿勢で、就任した7月7日の首相談話で「日中国交正常化を急ぐ」旨を語り、すぐに異例なことに直後の7月9日に周恩来は「歓迎する」旨を明らかにした。7月16日に社会党の佐々木元委員長が訪中した際には「日本の田中首相の訪中を歓迎する」メッセージを示し、そして7月25日に公明党の竹入委員長が訪中[注釈 11] して27日から3日間延べ10時間に渡って周恩来首相と会談して、中華人民共和国の考え方の内容が示された[注釈 12]。帰国後の8月4日に田中首相と大平外相にその内容を書いたメモを手渡している。この竹入メモには「国交回復(正常化)三原則を十分理解する」「唯一合法政府として認める」「共同声明で戦争状態を終結する」「戦時賠償を放棄する」[注釈 13][注釈 14]「平和五原則に同意する」「覇権主義に反対する」「唯一合法政府として認めるならば復交3原則の台湾に関する部分は秘してもいい」「日米安保条約を容認する」等の内容で、田中首相はこれを読んで北京に赴くことを決意した[38][注釈 15][注釈 16]。, この時から中華人民共和国側も田中内閣での国交正常化に本腰を入れ、当時上海舞劇団団長として来日していた孫平化中日友好協会副秘書長と肖向前中日備忘録貿易弁事処東京連絡処首席代表の2人が8月15日に帝国ホテルで田中首相と会談する場が設けられて、その場で田中首相は自身の訪中の意向を初めて公式に伝え[39]、中華人民共和国側から正式に田中首相を本国へ招待することが伝えられた[40]。ここから、日本国と中華人民共和国との交渉がスタートした。, ここで田中首相は、アメリカよりも早く日中国交正常化を果たすことを決断した。このとき日本はニクソン訪中の後に日中関係の正常化へ動いたにもかかわらず、アメリカよりも先に中華人民共和国を承認したのは日本の戦後政治史において例外的なことではあるが、ただし田中首相は就任後7月19日にアメリカのインガソル駐日大使にその意思を伝え、8月31日と9月1日にハワイで行ったニクソン大統領との会談でも確認しており、訪中前にアメリカにとってはすでに織り込み済みの話ではあった[注釈 17]。, 1972年9月25日、田中首相は秋晴れの北京空港に日本航空の専用機で降り立ち、自ら中華人民共和国を訪問した。ニクソン訪中から7ヶ月後であった。同日午後から第1回会談が行われた。出席者は日本側が、田中首相、大平外相、二階堂官房長官、高島条約局長、橋本中国課長、栗山条約課長など8名。中国側は、周恩来首相、姫鵬飛外相、廖承志会長、韓念龍外交部副部長、張香山顧問など8名。この席でまず共同声明の形で国交正常化を行うこと、中華人民共和国側が日米安保条体制を是認すること、日本側が日華平和条約を終了させることが確認された。夜の晩餐会では、周恩来首相は「双方が努力し、十分に話し合い、小異を残して大同を求めること[注釈 18] で中日国交正常化は必ず実現できるものと確信します。」と挨拶して、一方田中首相は「過去に中国国民に多大なご迷惑をおかけしたことを深く反省します[注釈 19]」と挨拶した。, 26日の午前中の外相会談で「戦争状態の終結[注釈 20]」「国交回復三原則」「賠償請求の放棄」「戦争への反省」の4点に関する基本的な見解を提示した[注釈 21]。午後の首脳会談で周恩来首相から前夜での「御迷惑」発言と午前中の高島条約局長の「日華平和条約との整合性」発言で厳しく指摘を受けた。これを受けて夕方に日本側からの提案で急遽外相会談が開かれ、「台湾は中国の一部」とする中華人民共和国側に対して「不可分の一部であることを再確認する」「この立場を日本政府は十分に理解し、ポツダム宣言に基づく立場を堅持する[注釈 22]」旨の案を提示した。, 27日の午前中は万里の長城などへ見学に行き、夕方から首脳会談を行った。前日の厳しいやり取りから一転して穏やかな雰囲気で始まった。全般的な外交問題や政策についてが話題となり、中ソ間のことも話題となった。また尖閣列島について田中首相から出されたが周首相から「今、話し合っても相互に利益にはならない」として、それ以前のまだ正常化に向けて残っている案件の処理を急ぐこととなった。夜に田中首相・大平外相・二階堂長官の3氏は毛沢東の私邸を訪ねて、この時に毛主席から「もうケンカは済みましたか」という言葉がかけられた。この日の深夜に外相会談が開かれて、戦争責任について「深く反省の意を表する」という表現で、戦争状態の終結については「不正常な状態の終結」という表現にする案でまとまった。, 28日の午前中は故宮博物館を見学して午後の首脳会談で、大平外相から日本と中華民国の関係について今回の共同声明が発表される翌日に終了すること、しかし民間貿易などの関係は継続される旨の発言があり、周首相は黙認する姿勢を示した。, そして9月29日に日本国総理大臣田中角栄と外務大臣:大平正芳が、一方中華人民共和国国務院総理周恩来と中華人民共和国外交部部長:姫鵬飛が「日本国政府と中華人民共和国政府の共同声明」(日中共同声明)に署名し、ここに日中国交正常化が成立した。日本が第二次世界大戦後、戦後処理に関する国際文書の中で歴史認識を示し、戦争責任を認めたのはこれが初めてのことであった[41]。, なお、当時はまだ戦後30年も経過しておらず、交渉には日中戦争の傷が影を落としていたが、周恩来は「日本人民と中国人民はともに日本の軍国主義の被害者である」として、「日本軍国主義」と「日本人民」を分断するロジックによって「未来志向」のポリティクスを提唱し、共同声明を実現させた。この論理によれば、抗日民族統一戦線の戦いをどれほど賛美し、日本の軍国主義の侵略をどれほど非難しても、それは日本との外交関係にいささかもネガティヴな影響を及ぼすものではないとされる。この「未来志向」の政治的合意は現在にも引き継がれている[42]。, 1971年1月25日、第31回世界卓球選手権名古屋大会に際し、日本卓球連盟会長の後藤鉀二が中国チームの参加を中国当局に説得。3月21日には中国が訪日し大会に出場した。このことから4月にアメリカの卓球選手団の訪中と周恩来首相との会見につながり米中の緊張緩和に微力ながら貢献した。, 宏池会(池田派 → 前尾派 → 大平派 → 鈴木派 → 宮澤派 → 加藤派)、※大勇会(河野派 → 為公会(麻生派) → 麻生派に合流×)、志公会(麻生派)、※宏池会(小里派 → 谷垣派 → 古賀派に合流×)、宏池会(堀内派 → 丹羽・古賀派 → 古賀派)、宏池会(古賀派 → 岸田派)、有隣会(谷垣グループ), 木曜研究会(佐藤派)、周山会(佐藤派)、周山クラブ(保利派 → 福田派に合流×)、※七日会(田中派)、政治同友会(田中派)、木曜クラブ(田中派 → 二階堂派 → ×)、※経世会(竹下派 → 小渕派)、※改革フォーラム21(羽田・小沢派 → 新生党に合流×)、平成政治研究会(小渕派)、平成研究会(小渕派 → 橋本派 → 津島派 → 額賀派 → 竹下派), 白政会(大野派)、睦政会(大野派)、一新会(船田派 → ×)、※一陽会(村上派 → 巽会(水田派 → ×)), 十日会(岸派 → )、党風刷新懇話会(福田派)、党風刷新連盟(福田派)、※愛正会(藤山派 → 水田派に合流×)、※(南条・平井派 → 福田派に合流×)、※交友クラブ(川島派 → 椎名派 → ×)、紀尾井会(福田派)、八日会(福田派)、清和会(福田派 → 安倍派 → )、※政眞会(加藤派 → 新生党に合流×)、清和会(三塚派)、21世紀を考える会・新政策研究会(三塚派)、※(亀井グループ → 村上・亀井派に合流×)、21世紀を考える会・新政策研究会(三塚派 → 森派)、清和政策研究会(森派 → 町村派 → 細田派), 春秋会(河野派 → 森派 → 園田派 → 福田派に合流×)、※新政同志会(中曽根派)、政策科学研究所(中曽根派 → 渡辺派 → )、※近未来政治研究会(山崎派 → 石原派)、※さいこう日本(甘利グループ)、政策科学研究所(村上派)、志帥会(村上・亀井派 → 江藤・亀井派 → 亀井派 → )、※国益と国民の生活を守る会(平沼グループ → 日本のこころに合流×)、志帥会(伊吹派 → 二階派), 政策研究会(松村・三木派)、政策同志会(松村・三木派)、政策懇談会(松村・三木派 → )、※(松村派 → ×)、政策懇談会(三木派)、※(早川派 → 福田派に合流×)、新政策研究会(河本派)、番町政策研究所(河本派 → 高村派 → 大島派 → 山東派 → 麻生派に合流×), 無派閥連絡会、無派閥有志の会、さわらび会(石破グループ → 水月会(石破派))、のぞみ(山本グループ)、きさらぎ会(鳩山グループ → 菅グループ), 日本行政書士政治連盟 - 日本司法書士政治連盟 - 全国土地家屋調査士政治連盟 - 日本公認会計士政治連盟 - 全国社会保険労務士政治連盟 - 日本酒造組合連合会 - 日本蒸留酒酒造組合 - ビール酒造組合 - 日本洋酒酒造組合 - 全国卸売酒販組合中央会 - 全国小売酒販政治連盟 - 全国たばこ販売政治連盟 - 全国たばこ耕作組合中央会 - 全私学連合会 - 全日本私立幼稚園連合会 - 全国専修学校各種学校総連合会 - 全日本教職員連盟 - 日本私立中学高等学校連合会 - 社団法人全国教育問題協議会 - 全国ゴルフ関連団体協議会 - 私立幼稚園経営者懇談会 - 全国私立小中高等学校保護者会連合会 - 神道政治連盟 - 財団法人全日本仏教会 - 天台宗 - 高野山真言宗 - 真言宗智山派 - 真言宗豊山派 - 浄土宗 - 浄土真宗本願寺派 - 真宗大谷派 - 臨済宗妙心寺派 - 曹洞宗 - 日蓮宗 - インナートリップ・イデオローグ・リサーチセンター - 崇教真光 - 立正佼成会 - 佛所護念会教団 - 妙智会教団 - 新生佛教教団 - 松緑神道大和山 - 世界救世教 - 日本医師連盟 - 日本歯科医師連盟 - 日本薬剤師連盟 - 日本看護連盟 - 日本製薬団体連合会 - 日本保育推進連盟 - 日本柔道整復師会 - 日本歯科技工士連盟 - 全国介護政治連盟 - 全国旅館政治連盟 - 全国飲食業生活衛生同業組合連合会 - 全日本美容生活衛生同業組合連合会 - 全国クリーニング業政治連盟 - 環境保全政治連盟 - 日本環境保全協会 - 日本造園組合連合会 - 全国ビルメンテナンス政治連盟 - 全国商工政治連盟 - 全国石油政治連盟 - 全国LPガス政治連盟 - 日本商工連盟 - 全国中小企業政治協会 - 全国商店街政治連盟 - 社団法人日本調査業協会 - 社団法人全日本ダンス協会連合会 - 全国農業者農政運動組織協議会 - 21全国農政推進同志会 - 日本森林組合連合会 - 社団法人全国林業協会 - 日本酪農政治連盟 - 全国畜産政治連盟 - 全国漁業協同組合連合会 - 大日本水産会 - 日本自動車工業会 - 日本中古自動車販売協会連合会 - 日本自動車販売協会連合会 - 日本自動車整備振興連合会 - 日本港湾空港建設協会連合会 - 日本自動車整備振興会連合会 - 社団法人全日本トラック協会 - 東日本ときわ会宮城県支部 - 21テレコム会議 - 全国土地改良政治連盟 - 日本港湾空港建設協会連合会 - 社団法人全国建設業協会 - 社団法人日本建設業団体連合会 - 社団法人日本土木工業協会 - 社団法人建築業協会 - 社団法人日本建設業経営協会 - 社団法人全国中小建設業協会 - 社団法人日本道路建設業協会 - 社団法人日本橋梁建設協会 - 社団法人建設コンサルタンツ協会 - 社団法人プレストレスト・コンクリート建設業協会 - 社団法人建設産業専門団体連合会 - 社団法人日本鳶工業連合会 - 社団法人日本造園建設業協会 - 社団法人全国建設業産業団体連合会 - 社団法人全国測量設計業協会連合会 - 社団法人全国地質調査業協会連合会 - 社団法人全国さく井協会 - 社団法人建設電気技術協会 - 日本下水コンポスト協会 - 社団法人全国道路標識・標示業協会 - 社団法人全国鐵構工業協会 - 社団法人日本建設躯体工事業団体連合会 - 社団法人日本塗装工業会 - 一般社団法人日本プレハブ駐車場工業会 - 社団法人不動産協会 - 全国不動産政治連盟 - 全日本不動産政治連盟 - 社団法人住宅生産団体連合会 - 全国生コンクリート工業組合連合会 - 軍恩連盟全国協議会 - 日本傷痍軍人会 - 社団法人日本郷友連盟, 講和条約の批准が米国議会で難しくなると指摘を受けた。この時は日本はまだアメリカや中華民国、イギリスやソビエト連邦をはじめとする連合国軍による占領下にあり、自主外交はできなかった。, この背景には、アメリカの中華民国支持の強い姿勢と同時に、アメリカの後押しで講和条約発効までに日本と国交成立をめざし、合わせて戦争賠償に関する戦後処理を急ぐ中華民国の狙いがあったと言われている。講和条約発効後の二国間交渉になると中華民国の立場が弱くなるとしていたからである。, このような中華人民共和国側の政策を「以民促官」政策といい、民間交流によって政府レベルの関係へと昇華させていこうとするものであった。「日中関係史」62P  有斐閣, この日、長崎市の浜屋デパートの4階催事場で行われた中国商品展示会でその会場に掲げられた五星紅旗を1人の青年が引き摺り降ろした事件。日本の警察が「旗を破損した」器物破損という軽微な事件として犯人をすぐに釈放した。, この池田政権の事実上の「二つの中国」政策は、積極的に中華人民共和国との国交樹立を図るというよりも、むしろ国連での中国代表権問題でいずれ中華民国が常任理事国の地位のみならず議席も失うとの予測から、その国際的地位を守り国連での議席を確保する方策として考えられた側面が大きい。この10年後に, これをMT貿易と表記される向きがあるが、MTとはMemorandum Tradeで覚書貿易の英語訳の略称であり、それにわざわざ貿易をつけると重言表現であり、当時は普通に覚書貿易と呼称されていたものである。, これは当時まだニクソン訪問が実現する前に、西欧各国が中国を承認する動きが出てきた頃に、いずれアメリカも承認せざるを得ないのではとの声から、日本が世界から取り残されるジョークとして週刊誌などで述べられていた。しかし由来はもっと古く、1957年から1963年まで駐米大使を務めた朝海浩一郎が、「日本にとって最大の外交的悪夢は、日本の知らない間に頭越しに米中両国が手を握る状態が訪れることだ。」と語ったことである。ニクソンショックはまさにこのジョークや悪夢が現実に起こったこととなった。, 前年まで中華人民共和国の加盟は重要事項で三分の二の賛成が必要という案(1960年頃に中華人民共和国加盟案を審議する際にアメリカが反対するための方策として考えられたものであった)をずっと提出していたが、この年は中華民国の議席の追放が重要事項で三分の二が必要という案に変った。, 当初は両国の議席を認めたうえで、国連安保理の常任理事国をそれまでの中華民国を継続させる案であったが、やがて中華人民共和国支持派の増加で結局中華人民共和国が安保理の常任理事国になることを認めたうえで、中華民国は総会での議席を認める内容に変更した。, 竹入委員長の訪中は政府の特使でもなければ、田中首相の意を受けたメッセンジャーでもなかった。紹介状も田中首相は書かなかった。竹入が後に「特使もどき」と自ら述べているが、実際には中華人民共和国側が田中首相の「伝言」を持ってきたと勘違いしていたところを竹入がうまく橋渡し役としての役割を果たし、田中首相への伝言をうまくまとめたものであったと言える。, 後に竹入は交渉のやり取りを詳細に記したメモと会談記録を作成して、このメモは後に竹入メモと呼ばれている。, 当時の外務省条約局長栗山尚一条約課長は、後にこの対日賠償請求を放棄する意向を示さなかったら、中華人民共和国との国交正常化は国家財政上不可能であった、と述べている。「外交証言録 沖縄返還・日中国交正常化・日米密約」栗山尚一著 参照, 竹入委員長は実際に周恩来から「賠償請求を放棄する」と聞いて体が震えたという。500億ドル程度は支払わなけらばならないと思っていたからである。



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