1199年 落馬によって体調を壊したため源頼朝死亡 木曽義仲が本格的に登場するのは、1180年9月に信濃国に起こった市原合戦という平家との戦いだと言われています。木曽義仲が平家に大勝利した倶利伽羅峠には、松尾芭蕉が詠んだ俳句が石碑として今も残されています。1182年、平安京は飢饉に襲われます。(教科書的には養和の飢饉と呼ばれています。)とは言え、もし木曽義仲が本当に最悪のヤツなら、今井兼平のような優秀な忠臣はいなかっただろうし、平家物語においてわざわざ木曽義仲を慕う巴御前の存在を描くようなこともしなかったでしょう。さらには俳人の松尾芭蕉が思いを馳せることもなかったはず。意図的にいいヤツっぽく木曽義仲を紹介しましたが、そんなフォローをするまでもなく悪いやつではなかったのだと思います。それとほぼ同時に木曽義仲に対抗しうる軍事力を失った平家は都落ちし、平家は西国で体制を立て直そうとしました。この後白河法皇と木曽義仲の軋轢を狙ったのが源頼朝でした。木曽義仲を見限った後白河法皇は水面下で源頼朝と交渉を始めます。この戦の後、木曽義仲は関東や甲斐の源氏勢力との衝突を避けるため、源氏の勢力が及んでいない北陸地方で、勢力を拡大してゆきます。弱体化した木曽義仲軍には、これに対抗するすべはありません。後白河法皇を幽閉している限り官軍を名乗れる木曽義仲は、一度後白河法皇を連れ、自らの本拠地である北陸へ逃げ込むことも検討します。・・・が、木曽義仲はわずかな兵力で源範頼・義経軍を迎え撃つ事を決断します。(この時、木曽義仲は既に死を覚悟していたのかもしれません。)木曽義仲は、短気だけれども実直で豪快な人物として描かれることが多いです。言葉や態度は悪かったようですが、その実直さや豪快さ故にどこか人を惹きつける魅力があったようです。(だからこそ、北陸地方で多くの兵を集めることができたのだと思う。)1180年、以仁王という人物が、反平家を掲げてクーデターを起こします。以仁王は、平家に不満を持っているであろう各地の源氏に共に立ち上がるよう呼びかけます。木曽義仲も源氏の血を引く1人です。以仁王の呼びかけに応じ、木曽義仲は挙兵します。いよいよ源平合戦の始まりです!皇位継承という非常に神経質な問題に新参者のくせにズカズカと物申したり、飢餓で混沌とする平安京の治安維持を任されたのに兵士たちをコントロールできず逆に治安を悪化させてしまうなど、木曽義仲の評価は最悪だったのです。(後者については、問題の根本が食料問題なので誰がやっても同じ結果だったかもしれませんが!)そのためには誰よりも早く平安京に入り、後白河法皇との関係を密にする必要があったのですが、その一番乗りが木曽義仲なのです。「よーし、この勢いで後白河法皇や朝廷とも頑張って良い関係を作っちゃうぞー!」と意気込んでいた木曽義仲ですが、朝廷のルールやしきたりを知らずストレートな物言いをする木曽義仲は朝廷内でかなりドン引きされました。そして、美しき武将巴御前と木曽義仲の関係も平家物語上でははっきりしていません。おそらく、平家物語作者は「後は読者のご想像にお任せしますよ(ニヤニヤ」的な感じだったんじゃないかと勝手に思ってます。法住寺合戦の暴挙により木曽義仲は人望を一気に失い、兵は日に日に逃げ出し、平安京入りを果たした際は数万いた兵力は、1000程までに弱体化していました。巴御前は平家物語などの物語上に登場する人物で、本当に実在したのか?どんな人物なのか?など今でもなお謎多き人物でもあります。平家物語では、巴御前の事を「巴は色白く髪長く、容顔まことに優れたり。強弓精兵、一人当千のつわものなり」と述べており、容姿端麗で豪腕な女性として描かれています。木曽義仲の兄に源仲家という人物がいます。木曽義仲は信濃に避難しましたが、兄の仲家は源頼政という人物の下で保護されました。源頼政は、以仁王と共に最期まで平家軍に対抗しますが敗北し、最後は自害。養父と共に戦っていた源仲家もこの時に戦死してしまいます。法住寺合戦により幽閉した後白河法皇を利用し、次々と無茶苦茶な人事や命令を下す木曽義仲の下に、源頼朝が派遣した源範頼・源義経軍が迫って来ます。義仲四天王に巴御前、木曽義仲の下には忠義に厚い有能な人物がたくさんいました。「ぶっきらぼうで棘のある性格だけど根は誠実」そんなギャップが木曽義仲の魅力であり、人々から慕われていたのでしょう。詳しい話は上の記事に譲るとして、寿永二年十月宣旨により木曽義仲は実質的に失脚し、実権を源頼朝に奪われることになりました。もう1人、樋口兼光は倶利伽羅峠の戦いにおいて重要な背後からの奇襲部隊として活躍した人物。樋口兼光なくして倶利伽羅峠の戦いの大勝利はありません。ちなみに樋口兼光は、戦国時代に活躍する直江兼続の祖先と言われています。この中でも今井兼平は、4人の中でもおそらく一番木曽義仲との関係が深い人物です。宇治川の戦いにて木曽義仲が死を悟った時、木曽義仲が安らかに自害できるよう、単騎で敵陣に特攻してその時間を稼いだ・・・と言われています。ここまで慕う忠臣がいる木曽義仲ですから、「性格悪くて態度悪いやつ!」という木曽義仲のイメージはやはり間違っていると思う!(しつこい)木曽義仲も源氏の血筋の者なので、源義仲なんて呼ぶこともあります。しかし、上述のとおり、父を殺され命からがら信濃国へ逃げ落ち、信濃の木曽山で育ったことから「木曽」という名を用いるようになったと言われています。このブログは、可能な限り客観的な視点から歴史を描きたい・・・と考え、自らの勉強も兼ねて書いているものですが、この木曽義仲の記事は意図的に主観的な意見を入れています。多勢に無勢すぎる木曽義仲に勝ち目はなく、惨敗。最期を自害で終えようとするも、それすら叶わず、顔面を敵兵の矢で打たれ戦死してしまいます。当時は「敵兵に打たれるぐらいなら自害するほうがマシ!」という風潮があったので、無念の死・・・と言えるでしょう。木曽義仲、31歳の時でした。以上が木曽義仲の生涯のハイライトになります。短命ながらも波乱万丈の生涯なことがわかりますね。というのも「歴史は勝者が作る」という言葉がありますが、木曽義仲は歴史的には敗者であり、敗者の歴史は勝者に貶められるのが常だからです。源平合戦当時の木曽義仲は、平家からも源頼朝からも後白河法皇からも嫌われており、まさに四面楚歌の状態でした。ちなみに、クーデターを起こした張本人である以仁王はすぐに平家軍に討たれてしまいます。木曽義仲と平家軍は一進一退の攻防を続け、倶利伽羅峠付近でこう着状態となります。兵力的には木曽義仲不利の状況ですが、山育ちの木曽義仲には地の利がありました。それに加え、木曽義仲は武勇に優れ、戦場においては知略にも優れたとても有能なリーダーでした。信濃国に匿われた木曽義仲は、平穏に青年期を過ごします。こんな言い方をするのは残酷かもしれませんが、物心つく前に父が殺されたことが幸いだったのかもしれません。源義朝の息子である源頼朝らに対して復讐心に燃える・・・ということもなく、信濃の山の中で元気に成長したようです。私自身、木曽義仲の生涯に惹かれる部分もあり、この記事では「実は木曽義仲ってそんな悪いやつじゃないかもよ?」って感じで書いてみました。松尾芭蕉が、木曽義仲に思いを馳せて詠んだ一句ですね。木曽義仲の生き様は死してもなお、後世の人々を魅了しているのです。平家にとって、倶利伽羅峠の戦いでの大敗北はその後の平家凋落を決定づける致命的な敗北でした。もはや平家に木曽義仲を抑える力は残っておらず、その後も木曽義仲は破竹の勢いで平家軍を破り、1183年7月、ついに木曽義仲は平安京入りを果たします。当時の朝廷は魔窟とまで言われ、忍耐強さと狡猾さがなければ生き残ることのできない過酷な場所でした。木曽義仲はこの朝廷文化に全く馴染めず、そのせいで自らの凋落を招いてしまいますが、これも木曽義仲の「気が短い」「正直で誠実すぎる」という性質が仇になったせいと言えるでしょう。養和の飢饉は、平安京にいる平家にとって深刻な問題でした。平家の勢力地である本命の西国からの食料供給は飢饉によりままならない。東に目を向ければ、東国、特に太平洋沿いの地域は源頼朝を筆頭に反平家の反乱が後を絶たず、同じく食料供給は途絶える状況。さらに、唯一頼ることができた北陸地方も木曽義仲が勢力を拡大し、緊迫した状況が続いていました。巴御前は、その謎の多さゆえに後世の物語では様々な形で登場します。これは巴御前が後世の人々を魅了する理由の1つかもしれません。木曽義仲は武勇に長け戦略を立てるのも上手かったようですが、政治的センスだけは致命的にありませんでした。義仲四天王の中にも政治的な智謀に長けた人物がおらず、この点が木曽義仲の非常に惜しい点です。「木曽義仲はいいヤツ!」というのが私の持論ですが、政治的センスが抜群だった源頼朝の方がやはり一枚も二枚も上手だった・・・という事実は揺るぎないように思います。戦いは力だけではない・・・木曽義仲そんな教訓を後世の人々に伝えてくれているような気がしてなりません。木曽義仲は、乳飲み子の頃から波乱万丈な人生を送ることになります。木曽義仲が2歳の時、父を殺され、木曽義仲自身も命を狙われることになったのです。しかしながら、いろんな人の助けがあって信濃国へと逃れることができました。当時、木曽義仲はたったの2歳ですから、おそらく木曽義仲には父の記憶はなかったことでしょう。. Zoom カメラオフ ホスト 見える, 源義基(『木曽考』・『木曽殿伝記』では三男とし、木曾氏の祖とする ) 文献によると、義仲が戦死すると、家臣であった今井氏、高梨氏、楯氏、町田・小野沢・萩原・串渕・諸田などに匿われ、現在の群馬県 渋川市 北橘村箱田に落ち延びたとされる。 川合康「横山氏系図と源氏将軍伝承」(初出:『中世武家系図の史料論 上巻』(高志書店、2007年)/所収:川合『院政期武士社会と鎌倉幕府』(吉川弘文館、2019年)) 2019年、P74-81. 青い文学 アニメ 動画, サマータイム 2019 アメリカ, Tube Map Tokyo English, 関ヶ原 初芽 最後, 源(多田)満仲の3男頼信を祖とし、河内国を本拠としたため後にこう呼ばれました。 源氏の中でも武士の源氏といった場合、この河内源氏を指します。 源頼朝・足利尊氏・新田義貞・木曾義仲・武田信玄らはすべて河内源氏の流れをくみます。 「鎌倉幕府」を開いた「源頼朝(みなもとのよりとも)」の「家系図」と「子孫」を「画像付き」で、わかりやすく解説いたします。征夷大将軍となり、日本最初の「幕府」である「鎌倉幕府」という「武家政権」を開いた「源頼朝」。 1183年 源義仲の討伐命令を受ける. ウィズラブ ドラマ あらすじ, 笹本正治「武田氏進入以前の木曾氏について」(初出:『信濃』42巻3号(1990年)/所収:笹本『戦国大名武田氏の研究』(思文閣出版、1993年)) 1993年、P177. 30代 弁護士 目指す,

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バーツ 円 推移 10年, 著名なのは美濃国恵那郡にあった木曾谷を支配していた一族である(後に木曾谷は信濃国筑摩郡に移されるが、その具体的な時期には諸説あり)。, 源義仲が木曾谷の中原兼遠の庇護下に置かれ、通称「木曾次郎」と名乗ったことに始まる。子の義高の代に滅亡した。義仲の子で存在が確実なのは義高と義基のみである。, 信濃国の藤原流木曾氏は、南北朝時代から室町時代後期にかけて木曽谷を領した国人領主。戦国時代の木曾氏は、かつて治承・寿永の乱で木曽谷から発して上洛を果たした木曾義仲の子孫を自称した(義仲の子である義宗(夭折)の末裔と自称)。実際には本姓は藤原氏(上野国沼田郷を拠点とした沼田氏、藤原秀郷流)とされ、沼田氏の当主の沼田家国(伊予守)の子で、義仲の義弟(義仲の側室の弟)で、義宗の母方の叔父でもある木曾基宗(刑部少輔)が「木曾氏」と称して、義仲・義宗父子の末裔と仮冒し、信濃国筑摩郡木曽谷を支配したとされる。, 木曾家の家譜『高遠記集成』[7]によると、鎌倉時代に信濃国木曾谷に義仲の五男と称した基宗・義茂父子が存在したといわれる。以降は義茂の子・基家、家仲、家教と木曾家直系が相続されたという。, 『西筑摩郡誌』(1973年) では初代を木曽義仲として2代目を二男義重とし、天福2年(1233年)、鎌倉幕府4代将軍藤原頼経から義重が木曽と仁科を賜り、自身は仁科を領し、弟の四郎義宗に木曽を譲ったとある。また、木曽を譲られた義宗は沼田に居を構えて「沼田義茂」を称したとしている。, 江戸時代に木曽谷を実質支配した尾張藩の木曽代官・山村良景が編纂した『木曽考』(大日本地誌大系刊行會)では、義仲を祖としている点は同じだが、2代目は三男義基(幼名・万寿丸)としている。, また、文献によると[要出典]三男義基は元暦元年(1184年)の粟津の戦いで義仲が戦死すると、家臣であった今井氏、高梨氏、楯氏、町田・小野沢・萩原・串渕・諸田などに匿われ、群馬県渋川市北橘村箱田に落ち延びたとされる。義仲の崇敬社である岡田神社、沙田神社、阿禮神社の分霊を勧請し木曾三社神社・木曾三柱神社を創建。箱田に住居を構えたことが始まりとされる[8]。, 義基は父・義仲の敗死後、安曇郡の豪族仁科義重に臣従し、曽山神明宮(長野県大町市八坂)に庇護され、のちに木曽谷の領主に据えられた[9]。, 『木曽殿伝記』によると、義仲没落後に義重・義基・義宗は外祖父にあたる上野国沼田の「伊予守藤原ノ家国」を頼り、その地で蟄居したとある。そして鎌倉幕府5代将軍藤原頼嗣の時代に、木曾氏4代目とされる基家が上野国と相模国に所領を得たとしている。, この伝承は『木曽考』にも取り上げられており、木曾氏との関係について『木曽考』では、沼田氏を称していた7代目家村が、暦応元年(1338年)に足利尊氏に属して戦功を挙げ、恩賞として木曽谷北部の大吉祖荘の宛行を受けて入部したとある[10]。, 『日本苗字大辞典』では『木曽考』の説に則っており、三男の義基から義茂・基家と続き、家仲と家教が沼田姓、家仲の孫の家村から木曾姓となっている。, 史料上の初見とされるのは、至徳2年(1385年)の水無神社と黒沢御嶽神社(共に現木曽町)の棟札に記された「伊与守藤原家信」(「伊与」=「伊予」)とされる。さらに、正長元年(1428年)の木曽白山神社の棟札には、「当地頭藤原家友」と記されている。その他に、木曽郡大桑村の定勝寺に宛てた享徳4年(1455年)の「左京大夫家賢」の書簡、康正2年(1456年)の「家定」の判物などがある。, これらの史料から、初期の木曾氏は藤原氏を称していたこと、「家」を通字としていたことが判明している。反面、義仲や源氏との繋がりを示すものは見つかっていない。また藤原姓として残る「家信」と「家友」は木曽氏の系譜には載っておらず、どのような位置付けにあったかは、いまだ判明していないが、領内の有力社寺の棟札に名のある点から、少なくとも木曾氏本流に近い有力者であったことは想定できる。, 木曾氏が義仲を意識して源氏を称するようになるのは、室町時代後期の文正元年(1466年)に興禅寺(木曽町福島)に寄進した梵鐘銘の「源朝臣家豊」からとされる。, 南北朝時代の木曾氏に関する確かな史料は少ないが、伝承ではおおむね家村(又太郎家邨)が弟の家定・家道とともに、足利尊氏の北朝方として活躍し、木曾谷に勢力を扶植したとしている。木曾氏の系図でも、家村の子らから木曽谷の土豪である黒川氏、千村氏、馬場氏らを輩出している。, また『高遠記集成』では、家村の男子すべてが早世したため、弟・家道の子・家頼が伯父・家村の養子となり、木曾氏を継いだとしている。, 正中2年(1385年)、家頼の子・家親の代に御嶽神社の若宮を建立、次代の親豊は永享2年(1430年)に禅院定勝寺を、永享6年(1434年)には福島に興禅寺を創建しており、木曾谷に勢力を拡大していることがうかがわれる。, また、前述の木曽氏の書簡としては最古とされる木曾家賢(左京大夫家賢)による享徳4年(1455年)の定勝寺住持補任状には、「木曽庄浄戒山定勝禅寺」と木曽谷全域を指すと思われる「木曽庄」の文言が使用されており、古来からの呼び名(北部を大吉祖荘、南部を小木曾荘)からの変化により、この時期に木曾谷全域をほぼ支配下に置いていたと考える向きもある。, 応仁元年(1467年)に時の将軍足利義政から小笠原家長の子定基に宛てた御教書には、「濃州凶徒等退治の事、木曽殿に仰せつけられ、合力致し」として「木曽殿」が登場する。また、同じ定基宛の細川政国の書状にも、「木曽兵部少輔」と協力するようにと記載されている。これらは木曾家豊を指すと考えられ、当時の室町幕府に木曾氏の勢力が認められていたと伝わる。, 戦国時代には義元が領国の隣接する信濃守護・小笠原氏と争い、さらに西に隣接する飛騨の三木氏と争う。永正7年(1510年)に義元は三木重頼(三木直頼の父)との戦いによる戦傷がもとで死去し、12歳の義在が後継者となる。, 義在は叔父の義勝に後見され、永正10年(1513年)に将軍足利義稙に従って近江に出陣した記録もあるが、父の代に争った飛騨の三木氏との関係も修復するなど対外的な勢力拡大策を取らず、内政重視の施策に専念する。そして天文2年(1533年)には、木曽谷を南北に縦断する妻籠から新洗馬までの宿駅を定めるなど交通網を整え、信濃と美濃や飛騨との流通を握ることで経済的基盤を確立することに成功する。, 天文11年(1542年)に家督を相続した義康(中務大輔、宗春)も、小笠原氏や信濃諏訪郡の諏訪氏との友好関係を築くなど、父義在の内政重視策を継承して木曾氏の勢力基盤を充実させていった。しかし甲斐の武田信玄により、天文14年(1545年)には諏訪氏が没落、天文17年(1548年)には小笠原長時が塩尻峠の戦いに敗北して没落する。, 翌天文18年(1549年)には、ついに木曽谷にも武田軍が侵攻する。いったんは鳥居峠で撃退するものの、天文23年(1554年)武田氏による木曽攻略が本格化する。『勝山記』によれば、義康は天文23年8月頃に武田氏に出仕したという。なお、木曽氏が武田氏に降伏した時期を弘治元年(1555年)とする説もあるが、前年であることが指摘される。, 義康は娘の岩姫を人質として武田家に送るものの、信玄の三女・真理姫と嫡男・義昌の縁組により、御一門衆として遇されることになる。武田氏の下で木曽氏を継承した義昌は、永禄7年(1564年)に信玄の命で飛騨の江馬時盛支援のために出兵するが、その他は対外的な活動は見られず、祖父以来の領内経営に当っていたと思われる。, 元亀4年(1573年)4月12日に信玄が死去。跡を継いだ勝頼が天正3年(1575年)5月21日に長篠の戦いで織田・徳川に敗北する。東京国立博物館所蔵「甲州・真宗・武州古文書」収録の「某起請文写」では織田・徳川・上杉らを敵と認識し、武田勝頼・木曽義昌への逆臣がないことを誓約しており、木曽家臣が提出されたものであると考えられている[11]。年代は天正4年4月に推定されており、同時期に武田家中において提出された起請文は見られないことから、勝頼が木曽氏の動向に対して注意を払っていた資料として注目されている[12]。, 天正10年(1582年)2月以前に義昌は織田信長の誘いに応じて離叛する。この離反は同年3月の織田信忠による甲州征伐の引き金となり、武田氏滅亡へと繋がる。, 武田滅亡により、義昌は織田家から安曇郡と筑摩郡の宛行を受けて深志城主(現在の松本城)となる。同年6月の本能寺の変により甲斐・信濃の武田遺領を巡り天正壬午の乱が発生する。越後上杉氏の支援を受けた小笠原洞雪斎の侵攻を受け、木曽谷へと戻ることになった。, その後は、徳川家康と盟約を結び本領を安堵され、天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いで豊臣秀吉に味方するが、戦いの後は徳川家に帰参。天正18年(1590年)の小田原征伐後、徳川家の関東移封に伴い、下総国海上郡阿知戸1万石(現在の千葉県旭市)に移封された。, 文禄4年(1595年)阿知戸城において義昌は死去。その後を嫡男の義利が継ぐが、義利は叔父の木曾義豊(上松蔵人)と不和となり殺害するなど粗暴な振る舞いが多く、慶長5年(1600年)頃に改易となった。なお、義昌が木曽から阿知戸1万石に移封された事に関しては「実質的な減封」、義昌の死去に対しては「失意のうちに」と表されることが多い。ただ江戸時代に木曽谷を実効支配した木曽代官の山村家(木曽氏の旧重臣)が7千5百石(一説には一万石)とされている点から、石高上は減封ではない。それが「実質的な減封」と伝えられる理由にはいくつか説(環境の激変や当時の阿知戸は実質6千石程度だったなど)があり、また義利の改易に至った振る舞いも、「実質的な減封」に由来する不満からとの説がある。, 関ヶ原の戦いで家康は下野国小山の陣に木曾氏遺臣の山村良勝、千村良重、馬場昌次を召しだし、豊臣方の石川光吉が抑える木曽路を平定するよう命じた(関ヶ原合戦前後の徳川家康文書)。, 阿知戸を退去した後の義利に関しては、確たる史料に基づく消息は残っていない。改易に際しても、「下総国に流罪」とする説と単に「追放」とする説がある。また、寛永16年(1629年)に伊予松山で没したとする説もあるが、確証は無い。



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